#002 熊本 浩志監督 「野球脳」P1





14年間のキャッチャー人生。


編集長

野球を始めたキッカケから教えてください。

熊本監督

8歳で地元のソフトボールチームに入ったのがきっかけでしたね。 それから本格的に高校野球、大学野球と22歳までプレイヤーとしてやっていました。 しかも、8歳から22歳までずっとキャッチャーで(笑) きっかけが単純でして、8歳の時に始めたチーム最初の練習で遅刻してしまい、残っていたポジションがキャッチャーかライトだけだったんですよね。 そこで直感なんですがキャッチャーを選択しました。 まさかその後14年間もキャッチャーをやるとはその時は思ってもいませんでした。 キャッチャーは他のポジションとは異なり特殊なポジションで、人の裏をかくことに喜びを見出すポジションなので、打者・走者、相手の監督の心理を読む、本当に嫌な性格になってしまいました(笑)。 そもそも、野球は9人でやるスポーツですが、キャッチャーだけみんなと逆を向いて野球をしていますから、役割が違うんですよね。


「野球道」ではなく「野球脳」


編集長

つまり、「考える野球」ですね。

熊本監督

そうですね。ただ、それらは技術論とか戦術論だけでないんです。 いわゆる「野球オタク」でした、今でもですが。 野球道具の知識、修理の仕方など野球と名の付くものは全て知っておかないと気が済まなかったんです。 そんな中、私の野球人生最大のエポックとも言える出来事が高校時代の恩師との出会いです。 私の高校はもともと進学校で、誰も甲子園なんて狙ってる奴はいませんでした。 しかし、その恩師、里岡勝郎という先生と同時に入学した私たち1年生が半分以上スタメンのチームで、初めての県大会、創部初のベスト8という結果を残したんです。 それはえらい騒ぎでした。 その里岡先生は、野球においては「強者が勝者とは限らない」「知力は体力を捕える」と常に言い続けていらっしゃいました。 他にも「野球は不確実で不思議なスポーツだ」「野球は頭で体力を上回れる」「練習は量より質」など、その指導法がまさに「シンキング・ベースボール」だったんですね。 野球は、「野球道」とも言われていた時代だったのですが、先生の野球はまさに「野球脳」で戦うんだと。 「ダブルスチール」「ツーランスクイズ」を駆使し、強豪校相手には常に心理戦に持ち込んでいましたね。 チームの中心にキャッチャーを位置づけ、キャッチャーを中心にゲームを組立てていくことが先生の指導の核でした。 打たれれば、先投であってもキャッチャーを叱りつけ、リードの一球一球を細かくチェックしましたし、ベンチではリードの意図を細かく説明しなければならなかったんです。この先生のおかげで、高校3年間は先生の指導法にハマっていましたね。私の今の野球感の原点とも言えます。



「中途半端にはやりたくなかった」


編集長

それで、大学卒業後はすぐに草野球を?

熊本監督

いや、それが、卒業と同時に野球は断ちました、10年間。 もちろん、大学卒業後に、知人からは草野球をしないかと誘われていましたが、野球だけはすぐに真剣になってしまい趣味で割りきれなくなるのがわかってましたから。 なので、野球道具一式は実家に送り返していました。 つまり、野球を辞めてからの10年間は、自分に野球のスイッチが入らないように意識して過ごしていたんです。 野球は自分にとって人生そのものだったので、中途半端にはやりたくなかったので。


次ページへ>>「野球を離れた10年間で変わった野球感」


 

野球チーム、集合。 teams

Copyright © 2018 SPORTS MARKETING LABORATORY Inc.