top of page

#005 遊佐兆正氏 「仕事も鉄腕、草野球も鉄腕」P1





「鉄腕」

編集長

鉄腕を作った経緯から聞かせてください。

遊佐氏

(社会人野球の)日本石油で野球をやっていましたが、戦力外になりまして。会社に勤めた後、親父が経営する広告関連のビジネスをしている会社に入りました。

その仕事をしている中で、一つの目標が見えてきたんです。「30歳ぐらいになったら飲食店をやりたいな」と。広告も嫌いではなかったんですが、やっぱり「自分のやりたいことを実現させたい」という思いが強くて。

そんな思いがあったこともあり、仕事をしながら、30歳になる前の7ヶ月間「あぶさん」(野球居酒屋・四谷三丁目)で金・土だけアルバイトをさせてもらっていたんです。 仕事をしている取引先の方が、たまたま飲食店も経営してまして、それがきっかけでその会社に入ることになりました。

最初は朝までやっているバーで、半年間ぐらい働かせてもらいました。その後、その会社が新たにお店を出すことになったのです。それが、ここ(今の「鉄腕」の店舗)の場所なんです。もともと、店長候補が一人いたのですが、その店長候補が急にやらないって言いだしまして、これはチャンスだなと思って、「僕やります」って言ったら「やるか」ってことになって。(笑)

もともとはこのような野球居酒屋ではなかったんです。生意気にも“やる条件”としてキッチリとした和食屋さんではなく、僕の好きな「野球をメインとした野球居酒屋」みたいなものだったらやります、ってコンセプトを伝えたら、社長が「おもしろい、じゃ、やろうか」というのがキッカケです。

ただ、やるにあたって二つの条件を出したのです。「バーの売り上げを半年間で1.5倍に上げる事ができたら独立させて欲しい」と。僕だけの力ではないですが、スタッフの協力もあり見事に月で1.5倍になりましてね。

もう一つの条件が、当時「あぶさん」でいっしょに働いていた女性スタッフと一緒に任せてほしいと。もちろん、その時は彼女には伝えていなかったのですが。そして、電話で事情を説明し、「手伝ってくれない?」って言ったら、ふたつ返事でした。その女性スタッフは、「あぶさん」で週3日ぐらい働いていて、毎日一緒に飲んでいた仲間なんですが、前々から冗談っぽく、「どちらかがお店を出したら手伝おうよ」と話していたので、まさにその時が来たのです。

とは言え、彼女はまだ「あぶさん」のスタッフでしたから、石井さん(「あぶさん」オーナー)にお伺いをしたのです。大事なスタッフを外に出すのは、面白くないと思うんですが、「分かった、お前らがやるんだったら一緒に行ってこい」っと言ってもらいまして。こうして、この店が誕生したのです。オープンは今でも忘れませんが、2004年12月8日でした。 石井さんには本当に感謝してます。本当は「あぶさん」で働きたかったんですがね(笑)

最初は飲食店に関してド素人だったので、お皿の調達、グラスの調達、酒屋との取引は、保健所への手続きは?などなど。まったくわからず、ほんとうにゼロからのスタートでした。

編集長

ネーミングの由来を教えていただけますか?

遊佐氏

「鉄腕」というネーミングは稲尾さん(稲尾 和久・「鉄腕」の異名をもつ元プロ野球選手)とは直接関係はしていないのですが、鉄板焼きをやりたかったことと、良い腕をもつという意味を込めてつけました。実は、他の候補として「豪腕」とか「剛球」とかもあったのですが、稲尾さんは伝説の人ですし、稲尾さんのように強靭な体力をもって(休まず)商売をする、と言う強い気持ちも込めて「鉄腕」でいくことにしました。 今でも、「鉄腕」って良い名前を付けたなぁって思いますね。

それこそソフトボールの上野さん(女子ソフトボール五輪代表)が、オリンピックの金メダルを獲った際に「鉄腕上野」「鉄腕上野」って言われるものですから、お客さんからは「スポンサーになったんですか?」ともいわれました(笑)。 また、やっぱり休まないでやり続けるっっていうことが「鉄腕」の意志なのかなと思うのですが、うちのスタッフは、ほとんど病気とかで休んだことがいないんですよ。やっぱりこういう名前の力も少しはあるのかなと思いますね。

編集長

お店のコンセプトを教えてください。

遊佐氏

僕たちの大好きな野球の話ができる店作りが基本ですね。 オープンの時に、小林雅英(巨人→オリックス・バファローズ)や、副島孔太(元プロ野球選手)など5人くらいで来てくれた際に、ボールにサインをしてもらったんですね。それでそのまま飾っていたんです。 そうしたら、あるお客さんから、「野球選手だけじゃくても、サッカー選手や芸能人が来ても、野球ボールにサインを書いてもらって飾ったらカッコいいかもね」とアドバイスを下さって。しかも、自分がサインを貰いに行くのではなく、あくまで来店していただいた際に直接書いてもらい、その選手を応援していこうと。それが現在のお店のコンセプトになりました。 それ以来、“どこどこファン”とかではなくて、来てくれた選手は全員頑張ってほしい、良い成績を残して欲しいな、って凄く思いますね。

そして、気が付けばこれだけのサインボールが集まってきましてね。。。 こういう話をすると、あらためて簡単に考えちゃいけないと思うし、大事にしなきゃいけないなと感じますね。本当にありがたいです。うちのお店の宝物ですね。


「野球観」


編集長

遊佐さんは、高校・社会人ではいわゆる野球の名門校出身であり、輝かしい成績も残してます。 逆にそれが自分の中で邪魔した部分などはありますか?

遊佐氏

それはありますね、人には言った事は無かったですが。最後は思うような結果が出ず、諦めてしまった自分がいました。本当は続けたかったのに。野球では一番になれなかったんです。悔しい気持ちもありました。でも今では、逆にそれがいい経験となり、何事もチャレンジしたらずっと続けてやろうかと思っていますね。 そんな自分の経験もあるので、ここに来る野球選手から「やめたい」と相談されることもあるのですが、「絶対やめないほうがいい」って言いますね。

生活的に厳しければそれは仕方ないですが「一年ぐらい浪人してもなんとか出来るんだったら絶対野球をやらないと」と言ってます。

現役の間は徹底的に現役にこだわるのが一番だと思いますね。その後は、様々な形で野球に関われれば最高だと思ってます。

現役時代は、周りのすごいプレーヤーを見ていて、「なんでこの人達はプロに行かないんだろうか」とか、「大学からプロに行けたのになんで社会人行くのかな」って疑問に思ったことも沢山ありました。 でも、プロに行く事がすべてじゃなくて、続ける事が大事なわけで。 例えば日本生命の杉浦 さん(前・日本生命硬式野球部監督)って、プロに行っても10勝ぐらいはしたと思いますが、なんで社会人に残るのかって疑問でしたね。でも、そうして社会人野球の立場で野球観を広めることが出来る人もいるし、それこそ草野球・軟式野球界に戻って野球を広める人、僕のように居酒屋で広める人もいるし。色んな野球の広め方、生き方、貢献の仕方がありますよね。

野球はどんな形であれ、やっぱり楽しいなって思いますもんね。 社会人とかプロだとやっぱり職業なんで、ちょっと厳しいとか、苦しい中での一部の楽しさかもしれませんが、草野球はずっと楽しいですからね(笑) 硬式は硬式の楽しさがありますし、軟式はまた軟式の楽しさがある。 野球は、ずっと、続けていきたいですね。

編集長

話は変わって、技術論。硬式経験者はみんな軟式に転向した際に打撃で苦労します。 東海大相模・日本石油流、バッティング理論を教えてください。

遊佐氏

(笑)僕は基本的に、硬式も軟式もあまり変わらないっていう認識が強いんです。芯で捉えてしっかり振れば、ちゃんと飛んでいく、って思います。たとえば落合さん(中日監督)であれば、確実に打てます。(笑)

ちなみに、僕は落合さんが大好きなんですよ。 対談か何かで、山田久志さんとシンカ―を打つコツについて語っていたのですが、普通は落ちてくるから、落ちる角度にあわせて、ボールを打つっていう話だと思うのですが、落合さんだけは違いました。落ちてくるのを叩いて乗っけて打つんだって。こんな考え方で打つ人がいるんだって思って感動しましたね。

右に引っ張って飛ばすというのはわかるんですが、和田さん(中日ドラゴンズ)とか、清原さんもそうなんですけど、乗っけて向こうに打つっていうのが、すごい。

編集長

落合さんに聞いてみたいですね、あれは考えられないですね。 逆方向にあれだけ体をひらいて飛ばす。僕らが教えられた時代の逆方向の打ち方は、いかに踏み込んで重心をのせられるか。こういう練習してましたよね。

遊佐氏

まぁみんなそうですよね。がーんと押し込んで、がーんともって行く。(笑) コツなんじゃないですかね。社会人の時は、「思いっきり振るんじゃなく、ここにポーンと力を入れれば飛ぶから。それしかないから」って。「あとは出し入れだけだから」って教えてもらったんです。全くできなかったですけど。落合さんはそこをやっているんでしょうね。


「キッカケ」

編集長

そもそも遊佐さんが野球を始めたキッカケを知りたいですね。

遊佐氏

野球を始めたきっかけは、小学生の時に4つ上の兄貴が野球を始めて、僕も「野球をやりたい」となり、兄貴の後にくっついて行ったのがきかっけでした。その後、地元の川崎の中学に入り、兄が所属していた「川崎北」というリトルシニアで硬式を握りました。

大きな転機は、中3のはじめに、日本で行われる初めてのシニア世界大会という大会が開催されることになりまして。その全日本代表の合宿選考会に参加して、見事1次選考で合格したんです。最終の40人くらいに残ったのですが、その選考会で、まず紅白戦をやることになったのですが、それはもう周りは全国大会常連選手ばかりで、彼らはすでに皆顔見知りの状態でして。僕だけが県予選で終わったレベルということもあり全然周りの選手も知らず、仲間がいなかったところ、「一緒にキャッチボールやろうよ」と声をかけてくれたのが副島 孔太(元プロ野球選手)でした。 そこでキャッチボールをしたのですが、スゴイ球を投げるんですよ(笑)。 その時に全国ってすごいなー。と感じましたね。

結局、選考では、その世界大会のメンバーからは外れたのですが、別にアメリカ遠征のメンバーに選ばれ、ニューヨークで現地の高校生相手に4・5試合を行い全勝したんです。そのご褒美だったのか忘れましたが、ヤンキースタジアムの見学ができたんです。 運良く、当日は試合もあり、そのスタンドの応援に感動したのを覚えてますね。いいプレーした時は球場全体で盛り上がり、逆に悪いプレーをすると観客からブーイングが起こる。中学生ながらこういう所で野球ができたら最高だなぁと思いましたね。

ちなみに中学生当時の夢はメジャーリーガーって書いてたらしいです(笑) その頃はまだ今のようにメジャーリーグも有名じゃないころです。

そこでもう一つ印象に残ったことが、球場でポップコーンを売ってまして、それをお客さんに向かって投げて込んでいたんです。何も分からず僕も手を上げたんですね。 そうしたら、ポップコーンがピシャーと僕の所に飛んできて、僕たちは丸坊主で学ランだったので、その容姿をみてポップコーン売りのオッサンが「お前らなんだ!」って言ってきまして。通訳の人が「彼らは日本人だけど、将来のメジャーリーガーだ!」っ言ったら、「そのお金はいらないから、今度お前がメジャーリーガーになったら10,000倍にして返してくれればいいや」と言ってる、と通訳の人が教えてくれて。 今でも鳥肌立っちゃうんですけど、僕がメジャーリーガーになれたら、そこに行って・・・。

日本のスタジアムもいいですけど、そういう雰囲気が最高で、僕もそのオッサンのおかけで、より一層、野球ファンになれたなーと。 日本に戻って野球をやりながらも、いつか(お金を)返そう。会いたいなと。 で、夢はかなわなかったですけど。(笑)



閲覧数:242回
アンカー 1
bottom of page